









人物を描くのが上手な渡辺しょーご氏が今回描いたのは辰巳氏だろうか? 全体的に暗いが、上の方がさらに暗く圧を感させる色彩設計。
水彩であるにもかかわらず「これでもか」というほどに塗りこむ描き方は圧を表現するには適しているかもしれない。 しかし、水彩は水彩なんだから「どこを白く残すか」を考えて塗るべきだろう。 シャツのしわなどのディティールが消え去っている。
彼はこれに加え水彩の切れ端のよせあつめのようなものも出品していた。 あの中に「水彩のおいしさ」のようなものを感じたのだろう。 作品に生かして欲しい。
輪郭線を描かずにはいられない金村氏はある意味日本人的絵画センスを持っているのかもしれない。 そして、日本が世界に誇る文化の一つが漫画であるということからすれば、今回の作品を称して「漫画的である」というのは間違ったことではあるまい。
彼は自分の作品について語りたがらないようだ。 それで、この元ネタについて激しく問い詰めてふたことみことの回答を得るより、この絵の寓意的意味についてぜひとも語っていただきたいものだ。
まず右下の天秤はこの女性が持っているのか? そうだとすると、これだけなにくわぬ顔をしていられるのは相当のつわものであることを示しているのだろうか。右上の方に棒の頭に丸い物がついているようなものが四つあるのは何なのか? 人生ゲームの人の駒だとすれば、(青だから)男ばかり四人というのはどうも腑に落ちない。…
適当に(適切にという意味で)まとめると、パステルはいい感じだ。
優美な水彩画を描く海野氏がキッチュでポップな作風に手を出し始めたようだ。原色ばりばりで、額装にビーズを使ったdolls1,2と村上隆的なきらきら模様の入ったdolls3。僕は水彩のほうが好きだが…。
花を描いたカードのような水彩はとても趣味的で良いと思う。 ちぎった和紙のような紙に水彩で花と言葉が書かれている。 花はデフォルメされているが、千代紙など全体の雰囲気と合っている。 水彩で書いた文字は味があってよい。
コットマン、ワトソンなどの紙なら、たまった絵の具のエッジがきれいに出るのだが、画用紙や和紙は水の吸いが良いのでより平面的になる。 水彩は紙の選び方が重要なので、吸いのよい紙も使ってみようかと思った。
作品の雰囲気と本人の性格のギャップが非常に大きいことで有名な影山氏の作品は今回もさわやかな淡彩画である。 空の部分のやさしく淡いグラデーションが非常に繊細だ。 しかしこれを描いた本人はさわやかではないし繊細ではなく、やさしくないし濃い。
淡い水彩で難しいのは下書きの鉛筆が見えてしまうところである。 軽くあたりをつける程度にとどめておくか、乾いてから消しゴムで消したほうが良い。 建物の窓の部分などに鉛筆の線画見えて興ざめである。
彼は今回スケッチブックも展示していた。 展示方法は考える必要があると思うが、興味深く見させていただいた。 マスキングをして描いたエッジがどれもとても魅力的だった。 絵の内容はどうでもいいから、エッジをもっとたくさん見せて欲しい。 この欲求を昇華させると格子模様へと行き着くのである。
スケッチブックをみて思ったのはやはり鉛筆が見えるのがダサい。 かといって、消してしまうと絵が骨抜き状態になってしまう部分もある。 淡彩画は線に支えられる必要のないモチーフを選ぶのが重要ではないだろうか。
己の内面世界をポスターカラーで二次元に具現化すべくもがき苦しむ熱い男が竹之内氏である。 今回も宇宙、月、星、道、そして(少しとんがった)モン・サン・ミッシェルのような島。と、モチーフからして竹之内ワールド全開という感じである。
構図的には島の位置は上過ぎる。下三分の一あたりの方が良いだろう。 そうすれば空のグラデーションも大きく取れるし、道も短縮効果により幅をもたせることができる。 あと、画面全体に描かれている斜めの線が意味不明である。 雨?流星?いずれにしてもちょっと無理がある。
とはいえ、以前より曖昧な部分が減ってまとまりがよくなったし、描き方にも無理がなくなってきたようだ。 描きたいものと描けるものの折衷がうまくなっただけかもしれないが。
ちょっと窮屈な貝を描いているのが千葉氏である。 彼女は蝶や虫を描いていたような木がするが、今回はあまり自由な感じではない。
貝の右側が窮屈な感じだ。もちろんもうちょっと左に寄せたら中央になってしまってよろしくない。 この場合、貝の右側を手前に引き寄せて斜めにするのが良いだろう。 右下から左上への動きが生じて奥行きが出る。
下地にサンドマチエールを使っているが、もっと生かことができる。 終始ウエットな筆で描いているようだが、影のベース部分はウエットな筆でにじませても面白いが、ハイライトはドライな筆でかすらせて重ねるとベースの色が生きてくる。
渡辺和貴氏はいつも挑戦的な作品を作り、当然理解してもらえない。 今回は「スノー・ホワイト」「ドラ・ブルー」「リリー」の三点。
「リリー」は写真を撮り忘れたが、一言で説明すれば「模造紙に製図ペンと定規で描かれた犬と柵」である。 入り口付近にあり、しかも白黒で壁と同化しているのでので気づかず素通りして写真も撮り忘れる。 しかし、もちろんそれだけではない。
よく見ると、柵の白色が地の白とはちがう。 ネームプレートによれば画材に色鉛筆が含まれている。 なるほど、線を引き終わったあとに柵と犬の領域を白の色鉛筆で塗ったようだ。
私の脳裏にこの作品が作成された過程が浮かび上がる。 「1.鉛筆で下書き。2.製図ペンと定規で清書。3.白の色鉛筆でせっせと塗る。」 各工程を作業のようにこなす作者の姿を想像し、ある意味それを追体験するのである。
ここでゴッホの「白い帽子を被ったホルディーナ・デフロート」という作品を見たときのことを思い出した。 何の変哲もない作品ではあるが、実物を近くで見ると大きなタッチと明確な色の重ね方のため、ゴッホが描いた過程を容易に想像できるのである。 「1.下地を塗り、2.中明度の部分を塗り3.明るい部分は赤を混ぜつつウエットインウエットで、4.ハイライトを入れて出来上がり。」
このとき、ゴッホの製作に立ち会ったような、あるいは「わだばゴッホになる」というくらいの強烈な共感を感じたのである。 ゴッホを体験したといっても良いかもしれない。
この共感という感覚は絵画のイリュージョンとしての評価基準とは関係がないように見えるし、イリュージョンであることに縛られない現代美術が取り組むべき課題のひとつともいえるのではないだろうか。と、はっぱをかけてみる。
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